一人一党党

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これ「が」いいの。これも「も」いいの。でも、これ「で」いいの?

ノートパソコンが欲しくて、それらについての記事を某デファクトスタンダード検索エンジンで調べていて、気になった事がある。
某巨大掲示板などをはじめとする口コミで、
Core i5 「で」いいだろ?」
「4Gバイト「で」十分。」
「これ「で」いいの。すこしも寒くないわ。」
この「で」が妙に気になる。
僅か一字の違いに過ぎないが、
Core i5 「が」いいだろ?」
「4Gバイト「が」十分。」
「これ「が」いいの。すこしも寒くないわ。」
Core i5 「も」いいだろ?」
「4Gバイト「も」十分。」
「これ「も」いいの。すこしも寒くないわ。」
ではないことに、私の中で疑問が沸くのだ。

疑問の生じる一つの理由は、調べている私の目的である。
私の目的・置かれた状況に「一番適した」ノートパソコンが、私は欲しい。
民主党事業仕分けスパコンと違って、「二番ではダメです」。
最適なものを選択できたにも拘らず、敢えて二番を選ぶのはバカな選択だからだ。
Core i5 「で最適」だろ?」
「4Gバイト「で最適」。」
「これ「で最適」。すこしも寒くないわ。」
恐らく「で」には「最適は他にある」という意味が含まれている。

しかし「最適は他にある」という意味では「も」も同じだ。
いや、正確には少し違う。
「最適は他に「も」ある」では、当該自身「も最適だ」だからだ。
エヴァンゲリヨンの某登場人物の今際の言葉
「これ「も」またよし。」
は、他の結末と「これ」を比較すると、同じ程度の「よし」になる。

「で」には、最適解ではないという発言者の負い目がある。

そして疑問の生じるもう一つの理由は、これらの言葉が投げられている場所は、凡る発言の溢れるインターネット上ということだ。
当然これらの発言には、「最適解」に関するものもある。
実際、これらの某巨大掲示板などでは「で」付きの発言の前に
「FX-8350 最高コスパ!」
とか、「最適解」についての発言がある場合が多い。
勿論、これらの発言はピーキーだったり単純に間違っていたりするので、
「私はgentoo使いよ。その場合はFXシリーズがいいの。でも情報弱者なら別のがいいの。少しも寒くないわ。」
「いやいや、コスパならCore i3だろ!?」
のように場合分けとか反例を述べる発言が続く。
このように、既に最適解についての発言が存在しているところに、「二番についての解」の発言を投げたらどうなるか?
それを真に受ける人は
「最適なものを選択できたにも拘らず、敢えて二番を選ぶ」
バカだけだ。
既に最適解が知られていている状況で、二番解を発言する事に価値はない。
「これ「で」いいのだ! 反対の賛成!」
は、バカダ大学出身者の台詞なのだ。
価値を出すなら、既存解を越えられるニッチを示すか、既存解を否定しなければならない。
発言競争の激しいネット上で、「で」を使う価値は殆どない。

にも拘らず「で」を使う発言が珍しくないのはなぜか?
まず、既存解の完成度が元々高い。
大抵の人はそれを越えられるほどの解を新しく発言できない。
しかしそれだけでは「で」に頼る理由として不十分だ。
既存解の想定していないニッチを示せば、発言する価値のある新しい解をデッチ上げる事は難しくない。
逆に言えば、価値あるニッチを多くの人々は見出せないということなのだろう。
地球の反対側であるアルゼンチンの株価下落の影響が数秒で日本の株式市場にも波及するほど、世界は一体化し統一化されている。
多様なニッチは既に消滅しているのが、現実なのかもしれない。
効率的市場仮説とおなじで、ニッチが存在すると人々が信じているときはニッチは消え失せるのだ。

裏を返せば、「効率的市場仮説は正しい」と人々が信じた場合と同様に、その存在の探索を人々がサボったとき、市場の歪みとニッチは復活する。
やはり、「で」ではなく「が」「も」を使うべきだ。

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ちなみに、私はまだ「アナと雪の女王」をみてない。

また、AMDのCPUについては、多くのパソコン雑誌とは逆に、初心者向けだと私は考える。
殆どの価格帯でIntelとの競争に晒されているので、ハズレ品は店頭まで出て来れない。
あとは、GPUの活用度合いで同価格帯のIntel Core i3以下と使い分ければ、初心者としては限界だろう。
少なくとも、他社との競争に晒されていないCore i7、そして今ではライバルであるAMDのFXシリーズが壊滅したCore i5も、割に合わないから初心者は避けるべきだ。